【タモリ学】批判と否定について〜サングラスに隠された愛について〜

よくブログなどで過激なコメントをして、多くの人から叩かれるようなケースがある。

ニュース:ゲームで遊ぶ人を批判していた日本一周美女 / 実は超ゲームコレクターだった



なかなか難しいよね。批判って。最初に言っておくと、特にこのブロガーの人に同情等の感情はなく、否定と批判のなかで表現的にもがいていることだけ分かる。それでは批判の話をしよう。



批判の定義、否定の定義

そもそも批判と否定は厳密には異なる意味。そういえば興味深い定義がある。


wikipedia批判的思考」にはこのようにある。


「批判」と「否定」の違い

「批判」という言葉は反対する、受け入れない、などのイメージから「否定」という言葉と同義で用いられるケースが少なからず存在するがここでいう批判とは情報を分析、吟味して取り入れることを指しており客観的把握をベースとした正確な理解が必要とされる。「否定」という言葉はその情報自体を拒絶するという意味合いが強くまた主観的要素を含んでおり「批判」という言葉の意味とは隔たりがある。

すなわち批判とは客観的分析だ。否定は主観的な対象の拒絶だ。




批判と否定は異なる


もう一度言おう。批判と否定は異なる。


もちろん批判という分析のなかに、以前の情報と異なる質の差として、否定というメソッドは包含される場合もあるだろう。



多くのブログが炎上したり、叩かれたりするのは、この否定の部分の使い分けなんだと思う。




否定的思考

テレビなどで芸能人が他の芸人を否定する文化がある。


古典的なボケとツッコミというコンビネーションなんだけど、これを安易にまねようとすると、
直球の否定だけになってしまう。



直球でない否定として、ホメ殺しだったり、ボケ返しとかもあるけど、最終的なゴールは否定が前提となっている。これは批判的思考とは若干ずれている。否定することありきで、議論が進む。



否定が最終ゴールであるこの考え方は否定的思考とも言える。




アジアと欧米の批判の考え方について


面白い考察がWikiには続く


アジアと欧米の違い

主観的な姿勢を採る傾向にあるアジア圏の人々は欧米人に比べると客観的な状況把握能力が欠けているといわれる[要出典]。

考えられる理由としては社会文化の中に集団意識という概念が強くあり「話を聞く、疑わない」ことが礼儀であると認識されており批判することを失礼であるとみなす風潮が根強く残っているということに加え、集団意識に派生する情報共有の尊重が個人的解釈に優先する傾向がある[要出典]。

よってこのような社会に属する人間が批判的思考能力を養うのは容易なことではない[要出典]。


なるほどアジアと欧米は批判のとらえかたが違うという考察。
注釈で[要出典]が連発されているので、これは一意見として受け止めよう。



たしかに五人組とかの制度でお互いを監視する「村」的な慣習が日本には昔からあった。


差があることを批判を通り越して、否定(拒絶)する慣習である。


これは現代の日本にも生きている。
日本であれば総中産階級的な見えないカーストのようなものが未だにある。
いわゆる「村」的な連帯感である。



これ自体に善悪はない。ただ差のみが存在する。



ウェブは天下一かまってちゃん武道会

インターネット上の価値体系は、リンクされたページが優位あるようになっている。
これはGoogleの発明したページランクの功罪とも言える





「天下一かまってちゃん武道会」と名づけよう。





否定的思考のほうが、ブログのタイトルも過激さがますし、人の目を引く。



不可視の価値のカースト(経済カースト?)が完成されてしまった
日本人の行き場がなくなってきた憂さばらしともある種マッチしている。



しかし否定はあくまで批判の一形態でしかない。否定自体の持つ生産性は疑わしい。
(無為でも生産という見方はあるが)



この事項は別途詳細をのせるとして、怖いな〜と思うのは、検索エンジンが善悪の判断装置の
ひとつになっているという点だ。そう、絶対心理ではない。あくまで検索エンジンの傾向によるものである。


これは各自が認識しておく必要がないと、世界観が大きく歪む可能性がある。



タモリ


話をもどそう。

自分の発した否定を否定したりして、-1に-1を掛けて批判的思考の上で生産できる強者もいる。


それがタモリである。


なぜタモリは日中の一番いい時間帯に何十年と君臨し続けられるのか?


普遍的な人気をどうして維持できるのか?


彼の業績はギネスにいくつか載るぐらい大きい。


それは彼の批判がただの否定で終わらないからである。なんらかのポイントを付いて、批判するが、彼の批判には愛があり、批判されたものは、決して否定(拒絶)されたと思わない。


批判されたものは、直近のサングラスの裏のやさしいまなざしに批判を理解するのである。


タモリの批判には愛がある。あと30年でも、お茶の間の第一人者として現役が続けられるだろう。


いずれタモリは学問化されるときがくるだろう。


一方、多くのウェブの世界は、耳目を集めるコトを至上の命題として、
否定的思考が蔓延していている。しかもそれで力尽きて完結してしまっている。




否定の存在

情動から突き動かされる否定的思考は、その存在はあってしかるべきだ。


だれかを拒絶する感想をブログや掲示板に書いても自由だ。


しかしその先にある生産的なものにも目を向けてみるのはどうだろうか。


否定の先にあるのは、自らが達成すべき純然たる目的かも知れないが、
もしかしたら拒絶される側への愛を影として含むのかもしれない。



さいごに

おーみゃんはトイレが詰まった朝の6時にかく語りき。